ティーポットにコットンを

 不注意で、ガラスのティーポットを割ってしまった。ティーポットを落としたのではない。別の食器を洗っているときに手を滑らせてしまって、その丈夫な食器が、シンクの中のティーポットに直撃したのだ。(丈夫な食器は、それはそれは丈夫だから、ティーポットとぶつかっても傷ひとつつかなかった。)でもいい。また買えばいいのだ。がっくしきながらも、結局はいつもそう思う。お金を払えばまた同じものが手に入る、そういう種類の損失なんて、全くたいしたことじゃない。生活に失敗はつきものなのだから、いちいちしみったれていたらきりがない。

 しかしそれから、こういうことはいくつか続いた。私はこの数日で二着の服にシミをつけ、絨毯にコップの水をすべてぶちまけ、文庫本の裏表紙を汚し、右手の親指をさっくり切った。血の滴る親指に絆創膏を貼るころ、内心私は動揺していた。こういうこと、ティーポットを割ってしまうみたいなことは私の生活にはしばしばあって、さしてめずらしいことではない。しかし今は、恋人と別れた直後なのだ。

 何度も言うけど、こういうのはめずらしいことじゃない。私はこの手の失敗を、たぶん人に比べて非常によくする。だから耐性もできていて、いちいちあんまりショックを受けない。私が動揺しているのは、こういった失敗のひとつひとつに対してではなく、つまり自分自身が、自分でもわからないところで、深い悲しみに暮れていやしないだろうか?ってところなのだ。それが、こういういくつものドジに表れているんじゃなかろうか。自覚のない悲しみは手に負えないから、そうだとすれば恐ろしかった。

 でも、ほんとうは恐れることなんてなんにもないということも、身体の奥底ではわかっている。深い悲しみが襲ってきたら、そのときはそのときだ。別れを切り出す前から、こうなることはわかっていた。当分は喪に服すしかない。失恋中は喪中のようなものなんだと、誰かも言っていた。

 ところで、ガラスのティーポットはちょっと変わった割れ方をした。ふたや持ち手や注ぎ口の細い部分は意外にも無事で、まるまるとした正面の、真ん中だけがカランと割れた。野球ボールが投げ込まれた窓ガラスみたいに、まるい穴がひとつできた。だから逆側から見れば傷ひとつないように見えたし、何しろ洗い物の途中だったので、一応は洗って他の食器と一緒に乾かしてみたのだが、トレーの上に伏せられたティーポットは、割ったことを忘れてうっかりお茶を注いでしまいそうなくらい、どこも傷んでいないように見えた。(本当にやりかねなかったので、乾くまで「割れてるよ」と書いたポストイットを貼っておいた)

 すっかり乾いたあと、ひとまずリビングに引き取った。ボタンを入れたら可愛いかも、お茶パックを入れたら良いかも。思えば、洗って伏せたあとからすでに、何を入れるか考え始めていた気がする。色々なものを試しに入れては出してみた結果、化粧用のコットンを入れるのにちょうどいいな、というところに落ち着いた。そして今、割れたティーポットは割れた方を後ろ向きにされ、私の鏡台の上に鎮座している。これがなかなか可愛い。ガラスのティーポットからコットンを取る瞬間のときめきったら。

 私は非実利的なことが許せないたちで、たとえばこれが新品のティーポットだったら、そこに化粧用のコットンを入れるなんて、どうしたってできなかったと思う。いくら可愛くてもだ。たとえばレ・メルヴェイユーズ ラデュレ(花びらのチークが有名な化粧品メーカーのほう)みたいなお店がそういうディスプレイをしていたら素敵だなと思うし、心躍ると思うけれども、ここは自宅で、うちはレ・メルヴェイユーズ ラデュレじゃない。同じ理由で私は、白いシーツの上に食べ物を乗っけて写真を撮る、ということがどうしてもできない。(私がそういう写真を撮ることがあるとするなら、それは本当にベッドで食事をしていたときに限ると思う)他人がしていても別にいいし、可愛いなとも思うのだけれど、自分では絶対にできない。ほとんど宗教上の理由みたいなものだ。実利的であることこそが美しく、空々しいことに手を染めたくはないという、稚拙でとても強固なこだわりが、私にはある。

 というわけで私は、ティーポットが割れてくれたおかげで、毎夜ロマンチックな思いで化粧水を顔に塗ることになった。たまにはドジも悪くない。(同じようにうちには、数年前にヒビを入れてしまったスガハラのグラスが、小物入れとして棚の上に置いてあり、これもなかなか気に入っている。)

 タイトルに迷って、今日読み終えたばかりの「ティファニーで朝食を」から着想を得た。美しくて驚くほど哀しい、良質な小説だった。