無題

 夜。

 疲れたから、ほんとうに思っていることだけ、列挙する。

 またしても会社が寂しい。同僚とうまく話せない。私は過剰にコミュニケーションの自信を失っている。対人恐怖ってこういうこと?私がいない間にも、実家の時間は進む。おばあちゃん、愛してる。どうにかしてあなたのこと、ずっといい時間の中にいられるように、守りたい。お母さん、もう期待しないから邪魔だけしないで。あわよくば救われてください。私の体が恋しい。あの身軽で汗をかかなかった体はどこにいっちゃったんだろう?もう2年も経つのに、まだ身幅がよくわかんないし、足が重くて仕方ない。私は私の体を取り戻したい。泣きたい。泣けてくる。なにもかも戻らない。でも大好きな人が私に歌を歌ってくれる。手を握って、抱きしめてくれる。そんな幸せなことがある?そんな幸せなことがあるのに、それとは別でまだ辛いんだね、私は。でも人生ってそんなものか。結婚したからってそれまでの苦悩が消えるわけじゃないって、誰かも言ってた。そりゃそうだ。Kとの暗い過去は消えない。私はまだ当分は、耐え難かった彼との記憶を思い出しては、怒り狂うことでしょう。でもそれでいい。その混沌こそが人生の醍醐味では?と、嘘じゃなくて、最近ちょっと思うから。会いたい人がいる。それだけで幸せ。最近は鼻歌だけで作曲したりして、自由に暮らしてる。なんにもがんばらなくても、だれかは私のこと、許してくれる?年収あがんなくても、これ以上美しくなれなくても、毎日生きてるだけでも、学校に行けなくても?お手伝いしない私のこと、お手伝いするあの子と比べたりしない?私っていつになったら安心できるんだろう?いつになったら、二十歳のあの春みたいに、なんにもなくていいって思えるの?考えなくていいよ、そんなこと思わなくていいよ、泣かなくていいよってみんなは言うけど、あなたは言うけど、私もそうしたいけど。

今はまだ、必要があって過去を振り返るの。あなたもそうでしょ。わかりたくて、わかってほしくて、なにかに落とし込みたくて。難しくしてる、なんて言わないで。そうらしいってことはもうわかってる。何年も前から、わかってる。でも絡まってるままなの。もう何年も何年も何年も、絡まったままここまできたの。Kのことだけじゃなくて、私の人生の全部、そうだった。私の家庭のひどさを、あなたが知る必要はない、ないけど、笑えるくらい、すごかったんだから。無関心で殺されそうになったこと、過保護で殺されそうになったこと、包丁で殺されそうになったこと、全部あるんだから、カオスだった。考えるっていうことは、わたしが、わたしを守るための、術だったの。考えないと、文字通り、生きてはいけなかった。

それを今、少しずつ解いていっているところなの。だからもし私のことが大切なら、考えすぎって言わないで。私も自分のこと、そう思ってる。教えてもらわなくても知ってる。

ごめんね。悲しいわ。

悲しい。

 

 

そんな感じ

ここに日記を書くのはずいぶん久しぶりのことだ。

ここでの日記は、人生がつらくなり始めたときに書き始めた。 具体的に言えば、就活にあたり体が動かなかった時期に、つらくてつらくて仕方なくて、その勢いでなんとなくはじめた。(結局、大した努力もできなかったが、持ち前の運で自分にフィットした場所へ辿り着くことができたので、結果的にはあまり辛い時期のことは書かれていない。)

それまでにも、公開非公開を問わずあちこちに日記のようなものを書いて生きてきたけど、改めて読み返すと、だれかに読まれる可能性があるぶん、ある程度は文章を整えて書いていたように見える。あれから色々あって、暮らしぶりも随分と変わり、今読み返すとどこか自分の日記とは思えない内容も多く、私はこんなにも変わってきたのかと驚いた。

 

ここ何年かは、人生の中でも、ほんとうに辛い時期だった。いつかは直面する問題だったのかもしれないし、あるいは自分が引き延ばしてしまったものなのかもしれなかったが、とにかく、とにかくヘヴィーそのものだった。この日記を書き始めた頃のことが幸せに思えるほど。

でもほとんどは、私の頭の中だけで起こったことだった。私の内的な世界で、爆発的な出来事がいくつも起こり、それを外に表出してはなるまいとして過ごすうちに、私はずいぶん、暗い人間になってしまった。暗い人間になってみてはじめて気付いたが、他人が暗い人間を扱う時のやり方というのはいくつかのパターンあって、大抵は、怖がる人と舐める人に分かれる。怖がらないで、と思うし、舐めんなよ、とも思う。だけど全部自分のせいだ。その人たちは悪くない。

私は私をこんな人間にしてしまったことを、心から申し訳なく思っている。思わなくてもいいことだし、もっと力を抜きなよと思うけど、とにかく今は、無理なのだ。このあいだ気を許している友人にふっといくつかの本音をこぼしたら、帰り際に言われてしまった。「あなたは考えすぎだと思う。考えすぎっていうのは、思考するのがダメって意味じゃなくて、物事を難しくしてはダメってことだよ」

おおー。

それはほんとうに、その通り。

友人はとても心の優しい人で、尊敬しているだけに、そう言われてとても辛かった。 友人からかけられる、「考えすぎだよ」みたいな言葉、今の私には、いちばんつらいことだ。骨折して歩けなくなってリハビリをしているところに、こうしたら綺麗に歩けるよ、とアドバイスされている気分。わかってるけど今は無理なの。骨が折れてるから、できないの。

 

でも、人生にはあきらかに、陽がさしはじめている。友人を大切に、失礼な人や、不可解な人とは距離を置いて、私は私の声をちゃんと聞き取りたい。率直な意見を、愚かだと切り捨てず、愚かなまま、感じていられるように、なりたい。

泣きたいし、疲れてしまったし、恥ずかしいし、もう誰にも気安く触れられたくないけど、また笑いたいし、恥ずかしくなく、なりたい。

そんな感じ。

私は私を守るのだ。

偶然の光

 このあいだ、一年半ぶりに我が家に掃除機がやってきた。嗚呼、掃除機。縦長の段ボールを乱暴に開封しながら、しみじみ思う。もう箒とクイックルワイパーとコロコロを駆使して床を掃除しなくて良いのね。床にごろんとしたときに見えたベッドの下のわずかな埃を、ちょいっと吸ってやることができるのね。開封して組み立て終わると、私はなおもしみじみした。嗚呼、掃除機。なんて軽いの。持ち上げてはうっとりして、気がつけば普段はあまり床掃除をしないようなところ(クローゼットの奥の方とか)にまで掃除機をかけていた。嗚呼、掃除機...

 そのおそろしく軽いスティック掃除機がうちに来て、早3週間になる。安物だから性能はそれなりだが、日々の掃除の腰は格段に軽くなった。人はなんだかんだ言っても文明に支えられているのだなあ、などとそれらしいことを思い、今や私は食洗機の購入を検討している。でもまず、置き場所からだ。

 今日は退勤後に喫煙所に寄った。夕方のオフィス街にあるその場所は明らかにそこだけが浮いていて、それはゲームのセーブポイントを彷彿とさせる。ベンチと仕切りが雑に設置されているのみで、雨風は凌げないが、自販機も灰皿もゴミ箱もある。私はその喫煙所に行くたびに、日が暮れる頃には山盛りになってしまうこの大きな缶の灰皿を、毎日片付けてくれているのは一体どんな人だろう?と想像する。察するに、彼もしくは彼女は、隣接された駐車場の管理人だ。もしかしたら管理人が雇っているのかも。でも不労所得が魅力の駐車場経営でわざわざ人を雇うか?と思うと、やっぱり管理人か、その親族なんじゃないかと思う。何にせよ、他者に場を提供し、その場所を維持管理するというのは、最も尊い仕事のひとつだ。あの場所に救われている労働者がどれほどいるか、計り知れない。

 暮れていく遠くの空を見つめながら、私は向かいのビルの灯りを見ていた。ドラマに出てきそうな現代的なオフィス、私よりずっと頭のいい人たちが頭のいいことをやっているオフィス。そこにいる何人もの労働者。家や会社にばかりいると、今日も人が動いているなあ、ということを忘れるから、たまに大きなビルとか、マンションとかをぼーっと見るのは良い。

 ぼーっとしていると、帰ったら洗濯物を回さなくちゃ、洗い物をしなくちゃ、などと思っている自分に気がついて、ああそうか、今日は人に大事にしてもらえたから、こういう勇気が湧くんだな、と思った。「自分を大事にしてね」ってつい人には簡単に言っちゃうけど、誰からも大事にされないで、一人きりで自分をちゃんと大切にし続けるって、けっこう難しいことだ。みんな誰かに大切にされて、はじめて自分を大切にできるのかなと思う。

 私が顔を見て言葉を交わせる人や、そこからさらに深くコミットできる人なんて限られているけど、触れる人触れる人、なるべくその人の魂を大切に扱おう、と思った。べつに私の心積りなんて他人からすれば何の支えにもならんだろうが、それでも孤独なとき、何気ない他人の態度に一瞬でも救われる瞬間っていうのはたしかにある。そして逆のこともあるのだから、同じ偶然ならせめて光の方でありたいなと思うのだ。上手く言えないけど。

最近のこと

 最近のこと①信頼できる人から映画を勧められて、久しぶりに映画館に観に行った。私が人から勧められた作品をすぐに観るなんてかなりめずらしいことで、自分でも異常事態だなと思う。きっと淋しいのだ。何しろ普段は、借りた本を2年後に返せばいいかなという塩梅である。めずらしいついでに、観にいったその日は偶然にもなんちゃらデーで、普段より安い料金で鑑賞できた。しかも一番いい席!券売機でチケットを購入している段階から、すでに私は幸福だった。

 しかし、映画は応えた。とても良い作品だったのだけれど、故に応えた。鑑賞後ひとりであることが辛い、私にとってはそういう種類の映画だった。誰かに抱きしめてほしかったし、抱きしめたかったが、明日も仕事である私は素直に家に帰り、早めに眠った。挙句、人から甘やかされる夢を3本もみて起きた。まったく情けない。

 最近のこと②財布が欲しい。ピンと伸びたお札が好きなので、できれば流行に逆らって長財布を持ちたいと定期的に思うが、流行りのブランドはミニウォレットばかりを展開させるので、長財布を選ぼうとするとどうしても無難なデザインになる。(つまらない、せっかくの小物なのに)加えて、私の持っている鞄は大抵かなり小さいので、今更長財布を持つとなるとほとんどの鞄が使えなくなる。これが一番の難点だ。今のところ、二つ折りで妥協しようかな(現在は三つ折りを使っている。会計のたびに三つ折りになって出てくる紙幣が、かなり嫌)と考えているが、二つ折りの財布に絞ると種類はかなり減り、依然として財布探しは難航している。

 最近のこと③このあいだの休日、大人になってからはじめてちゃんと絵を描いた。ここに言う「ちゃんと」というのは、つまり絵の具を使ったってことだ。数年前、色にハマっていた(色という概念を愛していた)頃に買った絵の具がうちにはあって、当時はそれでいろいろな色を作って遊んでいたのだけれど、絵を描くのははじめてだった。デッサンの基礎も絵心も待ち合わせていない私は、ひとまず丘を描き、そこに一本木を描いた。さるすべりの木のつもりで描いたが、別になんてことのない木になった。でも、指で絵の具を塗り広げるのは楽しかったし、緑や黄色や桃色やを合わせながら、陽の差す春の丘を描くのは楽しかった。絵を描くって、精神にとてもいい作業だな、としみじみ思った。私は飽きっぽいので、この頃は他にもいろんなことをやっている。ピアノを弾いたり、ストレッチやヨガをしたり、義務教育の理科数学をやってみたり、小学校の授業みたいである。とりあえず何かをやっていれば、いずれローテーションで2回目が回ってくるだろう、という算段だ。大人になってから小学校の授業みたいなことを真剣にやるのは、けっこう楽しい。

 最近のこと④旅がしたい。友部正人さんの「どうして旅に出なかったんだ」という歌を、このあいだFULL OF LOVE(旅先で出会ったメンバーで結成されたバンド)がカバーしていて、実際にさまざまな旅をしてきたであろうこの人たちに「どうして旅に出なかったんだ、坊や」とくり返し歌われると、安直な私は今すぐ旅に出なければという気持ちになるのだった。元々、今年は旅をすると決めていた。しかし考えてみれば、私はライブの遠征以外で一人で寝泊まりをしたことがない。新幹線に乗ったことは何度もあるが、行く先にはいつも私を待っていてくれる人や、目的があった。明確な目的や落ち合う人のいる遠征はただの遠征であり旅ではないので、実質はじめての一人旅ということになる。一人旅!その自由と孤独を思うだけでどきどきする。駅のホームを出ても私を待つ人はおらず、私はきっとトイレで化粧直しをすることもない。何時からどこへ行ってもいいし、いつ休んでも構わない。旅先に住む知り合いとは会っても会わなくてもいい(たぶん会わない)。旅だから、駅弁とか食べちゃおうかな。ゲストハウスって実際どんなところだろうか。知らない街のなんてことのない本屋が好きだから、たくさん寄りたい。その街のバーにも行きたい。

 旅をしたことがない私は旅についての一切を知らないが、先人たちの言葉から、「若く、お金のないうちにしかできない旅」があることはなんとなく知っている。そうなのだろうなとも思う。旅がしたい。若く、お金のないうちに。

なーーんにもしたくない!

 年が明けた。男たちと別れ、私の生活は静かになった。電話もデートもお酒もなくなった私の生活を埋めるものはまだあんまりなくって、ギターを買おうかとか、副業をがんばろうかとか、いろいろ検討している。でも身体が動かない。きっと年末からいろんなことを考えすぎてオーバーヒートしてしまったのだ。ここ最近の私の行動量なんて微々たるもんであるが、頭は常にぐるぐると動き回っていた。(証拠に、勉強もしていないのに毎晩いろんな夢を見る。)

 この三日は、毎日好きなだけ寝て食べて書いて観ていた。そう決めてそうしたのであるし、楽しかったけど、本当はやりたいこともたくさんあるのに動けない、というようなもどかしさも、常にどこかにあったように思う。本当は人に会って声を出して歌を歌って踊りたい。

 怠惰は怠惰を呼ぶ。行動が行動を呼ぶように。今や私はなーーんにもしたくなくなっている。もう、もうほんとうに、なーーんにもしたくないのである。1週間くらい冬眠してしまいたい。起きたらすっかり春が来ていて、世界が祝福に満ちていたらどんなに楽か。

 昨日は肩の力を抜くストレッチをした。首の長い美人に憧れるが、私の骨格はそのようにはできていないので、せっせとストレッチに勤しむしかないのだ。この間友人に「もっと肩の力を抜いても良いよ」と言われたことを思い出す。そうだね、わかるよ、と私は私に思った。私はもっと肩の力を抜いて良い。緊張なんかしなくたって生きていけるのに、失敗しても恥をかいてもいいのに、過剰に怖がるのは私の悪い癖だ。

“恥ずかしい それは 格好いい” なのにね。

 何はともあれ生活しなくては。人並みに仕事をし、生き延びることを考えて、お茶を淹れて、服を選んで、毎朝カーテンを開かなくては。そうして生きているうちに、その生活のほんの隙間に、救いも愛もやってくるのだ。どこからともなく。

 

ティーポットにコットンを

 不注意で、ガラスのティーポットを割ってしまった。ティーポットを落としたのではない。別の食器を洗っているときに手を滑らせてしまって、その丈夫な食器が、シンクの中のティーポットに直撃したのだ。(丈夫な食器は、それはそれは丈夫だから、ティーポットとぶつかっても傷ひとつつかなかった。)でもいい。また買えばいいのだ。がっくしきながらも、結局はいつもそう思う。お金を払えばまた同じものが手に入る、そういう種類の損失なんて、全くたいしたことじゃない。生活に失敗はつきものなのだから、いちいちしみったれていたらきりがない。

 しかしそれから、こういうことはいくつか続いた。私はこの数日で二着の服にシミをつけ、絨毯にコップの水をすべてぶちまけ、文庫本の裏表紙を汚し、右手の親指をさっくり切った。血の滴る親指に絆創膏を貼るころ、内心私は動揺していた。こういうこと、ティーポットを割ってしまうみたいなことは私の生活にはしばしばあって、さしてめずらしいことではない。しかし今は、恋人と別れた直後なのだ。

 何度も言うけど、こういうのはめずらしいことじゃない。私はこの手の失敗を、たぶん人に比べて非常によくする。だから耐性もできていて、いちいちあんまりショックを受けない。私が動揺しているのは、こういった失敗のひとつひとつに対してではなく、つまり自分自身が、自分でもわからないところで、深い悲しみに暮れていやしないだろうか?ってところなのだ。それが、こういういくつものドジに表れているんじゃなかろうか。自覚のない悲しみは手に負えないから、そうだとすれば恐ろしかった。

 でも、ほんとうは恐れることなんてなんにもないということも、身体の奥底ではわかっている。深い悲しみが襲ってきたら、そのときはそのときだ。別れを切り出す前から、こうなることはわかっていた。当分は喪に服すしかない。失恋中は喪中のようなものなんだと、誰かも言っていた。

 ところで、ガラスのティーポットはちょっと変わった割れ方をした。ふたや持ち手や注ぎ口の細い部分は意外にも無事で、まるまるとした正面の、真ん中だけがカランと割れた。野球ボールが投げ込まれた窓ガラスみたいに、まるい穴がひとつできた。だから逆側から見れば傷ひとつないように見えたし、何しろ洗い物の途中だったので、一応は洗って他の食器と一緒に乾かしてみたのだが、トレーの上に伏せられたティーポットは、割ったことを忘れてうっかりお茶を注いでしまいそうなくらい、どこも傷んでいないように見えた。(本当にやりかねなかったので、乾くまで「割れてるよ」と書いたポストイットを貼っておいた)

 すっかり乾いたあと、ひとまずリビングに引き取った。ボタンを入れたら可愛いかも、お茶パックを入れたら良いかも。思えば、洗って伏せたあとからすでに、何を入れるか考え始めていた気がする。色々なものを試しに入れては出してみた結果、化粧用のコットンを入れるのにちょうどいいな、というところに落ち着いた。そして今、割れたティーポットは割れた方を後ろ向きにされ、私の鏡台の上に鎮座している。これがなかなか可愛い。ガラスのティーポットからコットンを取る瞬間のときめきったら。

 私は非実利的なことが許せないたちで、たとえばこれが新品のティーポットだったら、そこに化粧用のコットンを入れるなんて、どうしたってできなかったと思う。いくら可愛くてもだ。たとえばレ・メルヴェイユーズ ラデュレ(花びらのチークが有名な化粧品メーカーのほう)みたいなお店がそういうディスプレイをしていたら素敵だなと思うし、心躍ると思うけれども、ここは自宅で、うちはレ・メルヴェイユーズ ラデュレじゃない。同じ理由で私は、白いシーツの上に食べ物を乗っけて写真を撮る、ということがどうしてもできない。(私がそういう写真を撮ることがあるとするなら、それは本当にベッドで食事をしていたときに限ると思う)他人がしていても別にいいし、可愛いなとも思うのだけれど、自分では絶対にできない。ほとんど宗教上の理由みたいなものだ。実利的であることこそが美しく、空々しいことに手を染めたくはないという、稚拙でとても強固なこだわりが、私にはある。

 というわけで私は、ティーポットが割れてくれたおかげで、毎夜ロマンチックな思いで化粧水を顔に塗ることになった。たまにはドジも悪くない。(同じようにうちには、数年前にヒビを入れてしまったスガハラのグラスが、小物入れとして棚の上に置いてあり、これもなかなか気に入っている。)

 タイトルに迷って、今日読み終えたばかりの「ティファニーで朝食を」から着想を得た。美しくて驚くほど哀しい、良質な小説だった。

土曜日、朝、欠けたケーキ皿

土曜日、朝。

恋人と別れたあと、簡単に部屋を片付けた

カーテンからは、別れ話をしたときに喫った煙草の匂いがしていた

窓を開けたまま話していたから、もしかすると隣人に聞かれたかもしれない

表は晴れていて、青い空が高かった

私は気分がよくなって、フランスパンにナッツとメープルをかけたのを食べた

冷たい紅茶と一緒に

欠けたケーキ皿で