偶然の光

 このあいだ、一年半ぶりに我が家に掃除機がやってきた。嗚呼、掃除機。縦長の段ボールを乱暴に開封しながら、しみじみ思う。もう箒とクイックルワイパーとコロコロを駆使して床を掃除しなくて良いのね。床にごろんとしたときに見えたベッドの下のわずかな埃を、ちょいっと吸ってやることができるのね。開封して組み立て終わると、私はなおもしみじみした。嗚呼、掃除機。なんて軽いの。持ち上げてはうっとりして、気がつけば普段はあまり床掃除をしないようなところ(クローゼットの奥の方とか)にまで掃除機をかけていた。嗚呼、掃除機...

 そのおそろしく軽いスティック掃除機がうちに来て、早3週間になる。安物だから性能はそれなりだが、日々の掃除の腰は格段に軽くなった。人はなんだかんだ言っても文明に支えられているのだなあ、などとそれらしいことを思い、今や私は食洗機の購入を検討している。でもまず、置き場所からだ。

 今日は退勤後に喫煙所に寄った。夕方のオフィス街にあるその場所は明らかにそこだけが浮いていて、それはゲームのセーブポイントを彷彿とさせる。ベンチと仕切りが雑に設置されているのみで、雨風は凌げないが、自販機も灰皿もゴミ箱もある。私はその喫煙所に行くたびに、日が暮れる頃には山盛りになってしまうこの大きな缶の灰皿を、毎日片付けてくれているのは一体どんな人だろう?と想像する。察するに、彼もしくは彼女は、隣接された駐車場の管理人だ。もしかしたら管理人が雇っているのかも。でも不労所得が魅力の駐車場経営でわざわざ人を雇うか?と思うと、やっぱり管理人か、その親族なんじゃないかと思う。何にせよ、他者に場を提供し、その場所を維持管理するというのは、最も尊い仕事のひとつだ。あの場所に救われている労働者がどれほどいるか、計り知れない。

 暮れていく遠くの空を見つめながら、私は向かいのビルの灯りを見ていた。ドラマに出てきそうな現代的なオフィス、私よりずっと頭のいい人たちが頭のいいことをやっているオフィス。そこにいる何人もの労働者。家や会社にばかりいると、今日も人が動いているなあ、ということを忘れるから、たまに大きなビルとか、マンションとかをぼーっと見るのは良い。

 ぼーっとしていると、帰ったら洗濯物を回さなくちゃ、洗い物をしなくちゃ、などと思っている自分に気がついて、ああそうか、今日は人に大事にしてもらえたから、こういう勇気が湧くんだな、と思った。「自分を大事にしてね」ってつい人には簡単に言っちゃうけど、誰からも大事にされないで、一人きりで自分をちゃんと大切にし続けるって、けっこう難しいことだ。みんな誰かに大切にされて、はじめて自分を大切にできるのかなと思う。

 私が顔を見て言葉を交わせる人や、そこからさらに深くコミットできる人なんて限られているけど、触れる人触れる人、なるべくその人の魂を大切に扱おう、と思った。べつに私の心積りなんて他人からすれば何の支えにもならんだろうが、それでも孤独なとき、何気ない他人の態度に一瞬でも救われる瞬間っていうのはたしかにある。そして逆のこともあるのだから、同じ偶然ならせめて光の方でありたいなと思うのだ。上手く言えないけど。