風のよくあたる場所

 日曜日。こちらは晴れている。さっきコンビニからマンションへ戻るとき、各部屋のベランダに洗濯物がはためいているのを見かけた。家々に干されている洗濯物はなぜだか私を幸福な気持ちにする。たぶん、乾いた洗濯物と晴れた日曜日を巡る、数々の幸福な記憶がそうさせるのだろう。

 コンビニの品揃えはすごい。流行りの(今はそうでもない?)チャミスルが、なんと5種類も置かれていた。晴れた日曜日効果で私はついマスカット味を手に取ってしまい、今はそれを飲んでいる。店で作るときのように氷をいっぱい入れて、冷えた緑茶で割った。おいしい。マドラーを反時計回りに回す自分の手を見て、仮にも板についているのだなと思うと可笑しかった。

 お店で働き始めてから、私は以前よりお酒が好きになったように思う。頻繁に飲むようになったから好きになったのではない。お店では何を飲んでも酔えないので、リラックスして飲むお酒に一層の幸福を感じるようになったのだ。酔えずに疲労だけが蓄積されていく飲酒は虚しい。お酒に強い人って一人で飲むときこんな気持ちかしらと想像した。

 今朝、起きたら空が青くて、それがうれしかった。青い空をみたのは久しぶりだった。最近は曇っていたから朝でも夕方でも同じようなものだったけれど、日光は同じ晴れでもちゃんと時間の流れを感じさせてくれるから好きだ。朝陽には朝陽の、夕陽には夕陽の差し込み方があり、自分がそれを感じ分けられることを私は不思議に思う。

 本格的な夏が近づいている。7月のうちに、たとえばかき氷を食べに行ったり、海を見に行ったり、夏のうちにしたいようなことをしておいた方がいい気がする。(8月になれば、体力のない私なんかはどうせ溶けて何もできなくなるのを知っている。)

 そういえば風鈴を出していない。そろそろ吊るしたいのだけれど、去年どこに仕舞ったのかさっぱり忘れてしまった。今日にでも探して、風のよくあたる場所に吊っておこうと思う。

 

 

水商売に向いている女なんていない

 しばらく元気がなかったけど、少しずつ回復してきた。すももが食べたい。いま私に必要な食べものはフルーツだという気がすごくする。今日、ツイッターの人が投稿している写真にカンパニュラが映り込んでいるのをみた。まだ売っているかはわからないけれど、ひと束買って飾りたい。私は釣鐘状の花が好きだ。

 この間、着飾ってお酒を飲んでお喋りをする場所で深夜働いた。以前にもっとカジュアルな店で一瞬だけ働いていたことがあった。(数時間で自分には無理だと悟り、その日のうちに辞めてしまった。)時が経ちもう一度やってみたいと思ったのは、今しかできないと思ったからだった。1年後よりも(たぶん)自由の身である今なら、飛び込んでみてもいいんじゃないか。人と話すのは好きだし、美しくなれるんじゃないかという期待もあった。

店には色々な女の子がいた。みんな比較的若く、私と同い年の子もたくさんいて、派手な顔立ちをした子もいれば素朴な空気感を持つ子もいた。在籍が長い人を見ていると、みな同様に所作がきれいで気配りが細かく、何より会話が上手だった。話しかけたいと思える雰囲気を纏っていて、初対面の私に対してでさえ、可愛く優しくユーモアを待って接してくれた。魅力的な人々だった。

 驚いたのは、お酒に弱い私がいくら飲んでも全く酔わなかったことだ。会話やグラス周りの仕事に夢中で、お酒に酔う隙なんてなかったのだと思う。ナイトワークは肉体労働であると同時に、頭脳労働でもあるのだと思い知らされた。昼間の仕事よりもずっと頭を使った気がした。体内には酔うに十分なアルコールが入っているのに酔っていないという状態はなんとなく落ち着かなくて、帰ってから少しだけお酒を飲んだら普通に酔っ払ってしまった。

 固まったヘアセットを解きながら、またしても私は、私ってお水に向いていない...とへこたれた。でもじゃあ、お水に向いているってなんだろうとも思った。美しいことだろうか。明るいことだろうか。それだけじゃやっていけないように、私には見えた。ああいう場所でお金を使っている人たちは、毎晩何人もの女の子から名刺を渡されている。覚えてもらうだけで一苦労なのだ。他人が近寄りやすい隙をみせたり、仲良くなりたいと思ってもらうことって結構難しい。営業が苦手な私はたった一晩でどっと疲れてしまった。

 

 私は会話と人間が好きだ。でも、基本的人権が確保されている状態でする会話と、頑張らないと基本的人権が確保されない状態でする会話は全然違う。9割の席では、頑張らないと基本的人権さえ確保されないように感じられた。尊重し、物ではなく人として見てもらえるという当たり前の権利は、商品である私たちには簡単に与えられないのだった。

 たぶん、水商売に向いている女なんていない。あの仕事は、たとえお酒と会話と人間が好きでも、客層が良い店に入ったとしても、絶対に"座って笑っているだけでいい、誰にでもできる簡単なお仕事"なんかじゃない。お酒の席で働いている人たちには今後一生頭が上がらないと思った。

 もう少し続けてみようと思う。大切なものを失いそうになったら辞めるつもりだけれど、そうでない限り、それまではやってみる。私にないものが身につく気がする。高い美意識か営業力か、度胸か強い肝臓か、それがなんだかはわからないけれど。

積読があるから死ねない

しにそうだ。なにも頑張っていないのに。なにかを擦り切れるほど頑張った人だけがしにそうだと呟いていいのだと、私はどこかで思っているのだろうか。最低だ。そんなことないよって他人になら言えるだろう。言えるくせに、自分には思えないなんて。でも結局それって正解っぽいから言っているだけであって、心の底にある実感では全く別のこと思ってんじゃないの?なんてまた自分に意地悪なことを考えてしまう。昨日帰宅してから思考がずっとこんな調子で、何をしていても頭の裏で自分が自分を責めていて、勝手に涙が出てくる。泣いている自分にも腹が立って、そのことにまた、泣いている側面の感情が反応して泣いてしまう。よくない心の動きなのはわかっている。どこがどうよくないのかもたぶん説明できる。でも説明できたってさして意味はないのだ。私はどうしてしまったんだ。

 

でも、読んでいない本がたくさんあるからまだ死ねない。明後日にはずっと読みたかった短編集が届く。欲しかった漫画の全巻セットも。この間見つけた美しいエッセイはまだ買えていないし、一昨日買った小説もまだ読み終わっていない。好きな作家の未読の本も、幸福なことにまだまだある。まだ死ねない。今日の日記は、まだ死ねないと書くためだけに書き始めたようなところがあると思う。書いていて思ったけど、なんだかんだ言って私の逃げ場は本の中にしかない。現実の私は、せめて本の中に逃げることのできる体力くらいは保証できるように、そこだけは守れるように、動けたらいいなと思う。

へいじつのぼうけん

 平日、私の冒険先は本屋と喫茶店だ。本屋で文庫本を買い、喫茶店でそれを読むというごくシンプルなものだけれど、たまにやると本当に元気がでる。このとき、手に取る本はなるべくなら普段読まない作家のものがいい。普段から親しんでいる作家の文章では冒険にならないからだ。苛烈か、もしくは奇天烈な話ばかりが集められた短編集だとなおいい。喫茶店は煙草が吸えて素っ気ない店ならどこでもよく、数年前なら探すのは容易だったが、この頃は吸える店自体が少なくなっているので、行き先は絞られつつある。

 今日手に取ったのはやや破廉恥な短編集で、帯には芸人の友近の顔があった。タイトルに見憶えがあったのは、前に官能小説に興味を持ったとき、調べた中に見たような気がしたからだ。その場で数ページ読んでみると、リズムよく滑らかな文章にあっという間に吸い寄せられた。いわゆる官能小説というよりかはもう少しフランクな類のものだったけれど、それにしても一般的な小説に比べて濡れ場の描写は多く、どの編も性にまつわるあれこれがテーマであるらしかった。レジはめずらしく混んでいたけど、みんな本があるので構わないという風だった。私も前の人たちに倣い、本を開いて順番を待った。

 喫茶店は全体的に空いていた。分煙のその店は昔は全席喫煙が可能で、一時は禁煙にもなっていたけれど、客足が遠のいたのか次に通りかかったときには分煙に戻っていた。特段珈琲が美味しいわけでも座り心地が良いわけでもないのだけれど、そういう素直さというか実直さがなんとなく心地よく、近くに用事があるとたまに寄っている。そして何より、この店の喫煙席はいつも程よく空いていて、全体的に可も不可もなく、読書に向いているのだった。

 小説には何人もの男や女が出てきて、その心身は美しかったり醜かったりと様々だったが、情事の中での肉体はみな同様に艶かしく、生命力に満ちていた。初老の男も若い女も、ほんとうにみな同様に。それが作者の意図するところなのか、それとも単なる私の感想なのかはわからないけれど、読みながら、私は最近サボり気味になっている自分のダイエットに思いを馳せていた。チープな感想だと思われるかもしれないが、しなやかに動く肉体たちを前に、自分もそんな肉体を持ちたいと素直に感じたのだ。それは別に、必ずしもセックスのためではなくても。

 帰って久しぶりにSwitchを起動し、フィットボクシングをつけた。続けていた頃には1時間でもやれたデイリーメニューは、20分もやると動けなくなって、諦めて今これを書いている。明日は30分できたらいいと思う。

 そういえば、幼い私を物語の面白さに引きこんだのは「おしいれのぼうけん」という児童書だった。文字が多いからか園の貸出図書では不人気だったけれど、人形劇などでみんなから親しまれている物語の一つだった。今でも本屋の絵本コーナーで見かけるとうれしくなる。私が冒険という言葉を愛好しているのは、この本の影響によるところが大きい気がする。

微炭酸が飲みたくて

 一昨日Amazonで本を買った。ポスト投函とのことだったので郵便箱をみにいくと、随分たくさんの郵便物が押し込まれていて、しばらくのあいだ開けていなかったことに気が付いた。ヒヤッとしたのは請求書だ。記憶の限りではさほど期限が迫っていないはずのそれは、開いてみるとなんと今日が期限だった。財布を取りに部屋へ戻り、その足でコンビニに向かいながら、少なくとも三日に一度は郵便箱を開けようと強く思った。

 請求書やチラシにまじって良いものも届いていた。たまに利用している通販サイトからのクーポンだ。使用期限まで数日しかなかったので、いそいそとサイトを開いて小物を見ていたのだけど、購入ページまで進んで10,000円以上の買い物にしか使えないことに気が付いた。私の会計額は7,000円弱だった。私はたぶん、こういうことを60歳になってもやっているのだろうなという気がした。まあいっかと思い、商品はカートから削除した。けちけちすんなよーとも思ったけど、まあいっかと思って諦められる買い物は大抵しなくてもいいのだと言い聞かせ、サイトを閉じた。

 そういえばこのあいだ、人生ではじめてレコードを買った。大好きな大好きなアーティストが限定発売で出していて、プレイヤーも持っていないのについ買ってしまった。プレイヤーに関しては、どちらにしろいつか欲しいなと思っていたので良い機会だったのだけれど、いざ買うとなると選ぶのが難しく保留になっている。レコードは6月下旬に届く予定なので、それまでに選べたらいいな。音楽が届く未来があるのってなんかいいなと思う。

 今は風呂上がりで、濡れた髪のままこれを書いている。微炭酸が飲みたくて、でも強炭酸しか家になかったので、水で割って飲むことにした。大は小を兼ねるの好例だなと思いながら。