私たち、およびショーシャンク

 このあいだ、久しぶりに幼馴染と会った。私たちは2歳から15歳まで同じ場所に通っていたから、もう随分長い付き合いになるわけだけれど、自分達が幼馴染だという認識を持ったのはここ数年のことだ。それって大人になってからの呼び名だから。

 ある時から、私は彼女のことが少し苦手になってしまって、意識的に距離を置いていたのだけれど、人間関係に律儀な彼女は、それでも私の誕生日にはLINEをくれ、定期的に遊びに誘ってくれる。会うのは一年ぶりだった。

 何故だかわからないけど、久しぶりに会う彼女に、私は終始親しみを感じていた。彼女は以前と何ら変わりのない様子で、身に起きたことをあれこれと詳細に語ってくれた。彼女が変わったのではない。私が変わったのだ。他人への好意の持ち方とか、話の受け取り方とか、そういうことのひとつひとつが、前に彼女と会ったときの自分とは、たしかに変わっているのがわかった。彼女に対する自分の気持ちを通じて。

 近況を語り合っていると、奇しくも同じような時期に同じようなことを経験していることがわかって、そういえば昔から、私たちは人生の至るポイントで似た境遇に立つことが多かったなあ、とぼんやり思い出したりした。

 

 大人になると、繋がりのバリエーションが増えて、友達の種類も多様になってくる。仲良くなることに、必ずしも共通点が必要なわけでもなくなる。生い立ちも境遇も性格も性別も全然違う相手と、それでも親しくなったりする大人同士の交友関係を、私は自由なものだと感じていたし、気に入ってもいた。

 けれど彼女との食事から帰宅する道中、私は心底、幼馴染ってありがたいな、と思っていた。話せば話すほど、彼女は私にとって、“私たち”と思える友達なのだった。同郷、同性、同年代、同境遇であるという共通点が生む、連帯感のようなものに、私はたしかに救われていた。

 変わらないことは退屈だとばかり思ってきたから、変わらないことに安心する気持ちがよくわからなかったけど、この頃は少しわかる気がする。そういう繋がりがあるのはありがたいことだ。私には兄弟がいないので、大人になってからの幼馴染は、ちょうど親しい兄弟のような安心感があるのだった。

 その夜は飲みすぎて、翌朝ちょっと頭が痛くなってしまった。私は酒に弱いが二日酔いは滅多にしないので、めずらしく思いながらそのまま一日怠けていた。

 

 全然関係のない話だけど、先週の金曜ロードショーショーシャンクの空にをやっていたらしい。私はあの映画が好きなので、そのことを聞いて元気が出た。自分の好きな映画がTV放映されていると、たとえ自分が観られなくても、それをはじめて観た人や、好んで観た人たちの胸中を勝手に思ってうれしい気持ちになる。別にはじめて観た人が作品に賞賛を送ろうと酷評をつけようとどっちでもいいのだけれど、観た人の数だけ新たに感想が生まれると思うと、そのこと自体がすでにうれしい。

 

 今日は帰り道に通る喫煙所でメンソールの匂いを嗅いだせいで、めずらしくメンソール煙草を買って帰ってきた。もういい加減に電子タバコに切り替えようかなーとも思うのだけれど、そうするとオフィスでもバカスカ吸ってしまう気がして、未だにちょっぴり躊躇している。もうとっくに喫煙者のくせにちまちまと本数を気にするなんて、私は本当にみみっちい。