料理でいちばん楽しいこと

 仕事中、今日はなんだか憂鬱だった。苦手な先輩からの引き継ぎがあり、その不明瞭な指示にイライラしたのもあるし、単純に頭が痛かったのもあると思う。どこかで飲んで帰ろうかとも思ったけど、会いたい友達がつかまらなかったので諦めた。

 でも、今、私はとっても機嫌がいい。天ぷらを揚げたのだ。それも人生ではじめて!

 今まで、揚げ物は油の処理とか火事の恐怖(私は大ドジ野郎なのでいつかやらかす気がしてならない)が勝って挑戦してこなかったのだけれど、先日フライヤーを導入し、今日はそれを始めて使ったのだった。少なくとも火事の恐怖からは逃れることができたので、油の処理は気合で乗り切ることにした。

 レシピに「衣は混ぜすぎないで」と書いてあったので、お菓子を作るときみたくさっくり混ぜたら、混ぜなさすぎたのか かき揚げの衣みたいになってしまった。でも全然いい。はじめて作る手間のかかる料理を真剣に作り、そこで小さな失敗をするなんて、料理の中でいちばん楽しいことだ。この頃はそういうことが全然なかったからすごくうれしかった。生活における冒険って感じ。一人で暮らし始めた頃、成功も失敗も、あらゆる生活の営みを楽しみまくっていたことを思い出した。

 にんじん、かぼちゃ、なす、れんこん、大葉、たけのこ、小エビと材料を揃えて、それを切ったり何やりして、ちょっとずつバットに並べていくのも楽しかった。作りすぎないように気をつけながら作ったけど、結局3食分くらいにはなってしまった。明日はうどんに乗せて食べようと思う。

 

あーー、生活って最高だな!

そういえば私の趣味は生活なんだった。今年は初心にかえって、生活の冒険をたくさんしよう。

私たち、およびショーシャンク

 このあいだ、久しぶりに幼馴染と会った。私たちは2歳から15歳まで同じ場所に通っていたから、もう随分長い付き合いになるわけだけれど、自分達が幼馴染だという認識を持ったのはここ数年のことだ。それって大人になってからの呼び名だから。

 ある時から、私は彼女のことが少し苦手になってしまって、意識的に距離を置いていたのだけれど、人間関係に律儀な彼女は、それでも私の誕生日にはLINEをくれ、定期的に遊びに誘ってくれる。会うのは一年ぶりだった。

 何故だかわからないけど、久しぶりに会う彼女に、私は終始親しみを感じていた。彼女は以前と何ら変わりのない様子で、身に起きたことをあれこれと詳細に語ってくれた。彼女が変わったのではない。私が変わったのだ。他人への好意の持ち方とか、話の受け取り方とか、そういうことのひとつひとつが、前に彼女と会ったときの自分とは、たしかに変わっているのがわかった。彼女に対する自分の気持ちを通じて。

 近況を語り合っていると、奇しくも同じような時期に同じようなことを経験していることがわかって、そういえば昔から、私たちは人生の至るポイントで似た境遇に立つことが多かったなあ、とぼんやり思い出したりした。

 

 大人になると、繋がりのバリエーションが増えて、友達の種類も多様になってくる。仲良くなることに、必ずしも共通点が必要なわけでもなくなる。生い立ちも境遇も性格も性別も全然違う相手と、それでも親しくなったりする大人同士の交友関係を、私は自由なものだと感じていたし、気に入ってもいた。

 けれど彼女との食事から帰宅する道中、私は心底、幼馴染ってありがたいな、と思っていた。話せば話すほど、彼女は私にとって、“私たち”と思える友達なのだった。同郷、同性、同年代、同境遇であるという共通点が生む、連帯感のようなものに、私はたしかに救われていた。

 変わらないことは退屈だとばかり思ってきたから、変わらないことに安心する気持ちがよくわからなかったけど、この頃は少しわかる気がする。そういう繋がりがあるのはありがたいことだ。私には兄弟がいないので、大人になってからの幼馴染は、ちょうど親しい兄弟のような安心感があるのだった。

 その夜は飲みすぎて、翌朝ちょっと頭が痛くなってしまった。私は酒に弱いが二日酔いは滅多にしないので、めずらしく思いながらそのまま一日怠けていた。

 

 全然関係のない話だけど、先週の金曜ロードショーショーシャンクの空にをやっていたらしい。私はあの映画が好きなので、そのことを聞いて元気が出た。自分の好きな映画がTV放映されていると、たとえ自分が観られなくても、それをはじめて観た人や、好んで観た人たちの胸中を勝手に思ってうれしい気持ちになる。別にはじめて観た人が作品に賞賛を送ろうと酷評をつけようとどっちでもいいのだけれど、観た人の数だけ新たに感想が生まれると思うと、そのこと自体がすでにうれしい。

 

 今日は帰り道に通る喫煙所でメンソールの匂いを嗅いだせいで、めずらしくメンソール煙草を買って帰ってきた。もういい加減に電子タバコに切り替えようかなーとも思うのだけれど、そうするとオフィスでもバカスカ吸ってしまう気がして、未だにちょっぴり躊躇している。もうとっくに喫煙者のくせにちまちまと本数を気にするなんて、私は本当にみみっちい。

正しい生活の営み

「風呂は命の洗濯よ!」

 こないだはじめてエヴァを見てからというもの、お風呂に入るたびにこのフレーズが浮かぶ。ミサトさんは本当に素敵な大人だと思う。あんな重責を抱えながら、それでも好きなメーカーのビールをストックしたりして、自分らしく生活を営んでいる。

 自分らしい生活を自分自身で運営している人は格好いい。18歳の人がしていても、30歳の人がしていても、70歳の人がしていても尊敬に値する。歳を取ればできることでもないし、お金は大事だけれど、あればできるってものでもない。

 自分らしい生活というのは、部屋が綺麗だとか、毎日自炊するだとか、そういう一般的な基準とは全く関係のないことだ。自分の気に入りの生活スタイルを模索して、できるだけそれをやっていくということ。自分の居心地の良さのためにコストを惜しまないということ。果てしなく続く生活のなかで、これらを続けていくということ。その意思みたいなもの。

 生活の営みを正しく続けている人々を、私は心から尊敬している。

 昨日は夕方から頭が締め付けられるように痛かった。自分の置かれた境遇について考えて涙が出たりしたけれど、湯船に浸かっていたらちょっとずつ未来に思考が向いてきて、気付いたら元気になっていた。おかげで今日は元気100倍で、カーペンターズの流れる喫茶店で珈琲なんか飲んじゃったりして、すっかり自分のペースだった。昨日、ミサトさんの言葉を思い出して、お湯を張ってよかった。

 ミサトさん達のことを思い出すと、荒んだ気持ちになる夜も、ちょっとだけ生きる闘志を取り戻せる。

 私も自分の生活をやってこう。

眠れないアル!

 GWが終わってしまった。私はというと、明日から出社が始まるというのに依然として眠れない。自分の脳が人より多動だということに気がつき始めた(というか、他の人たちは私よりも落ち着いているということを知った)のはここ1年くらいのことだ。加えて、私は午後のデスクワークは絶対に眠くなってしまう(睡眠が足りていようと、炭水化物を控えていようと)のだけれど、そういう人が自分以外にも一定数おり、かつそれは身体の仕組みの問題かもしれないということも、同じくらいの時期に併せて知った。

知ることができたのはよかったけれど、原因がわかったからといって症状が治るわけではない。ほんとうに困っているので、そろそろ薬をもらうことを検討してもいいのかもしれない。私は薬の常用を怖がりすぎるところがある。

 

 それはそうと、自由自在に眠りをコントロールできたらどんなに素晴らしいだろう。今この瞬間の頭の冴えを、明日の午後の自分に分けてやりたい。たしかドラえもんひみつ道具にそういうのがあったはず(定かではない)。昼食後、抗い難い眠気に襲われるたびに、学校で、会社で、時々その道具のことをぼんやりと思っていた。でも残念ながらここは22世紀じゃないので、行きたくもないトイレに立ち、手首に冷水を当て、時に頬を叩いてみたりすることしか、私にはできない。

 

 眠れない夜、眠れない自分を責めるのは辛い。そういうときには、同じく眠れない人を観測することにしている。Twitterで「眠れないから」と調べれば、眠れない人は無限に出てくる。眠れないから散歩してる人、眠れないから掃除してる人、眠れないから歌ってる人、色々いて、ほんとうに良い。16歳の頃に発見して以来、この検索は私の不眠のお供になっている。

 

 それでも焦りが消えないときには、アニメ銀魂 第153話「寝る子は育つ」を視聴する。年2くらいで見ている。これは夜中に神楽が「眠れないアル!」と転がりながらただひたすらに銀ちゃん(同居人)にちょっかいをかける話なのだけれど、自分がまさしく「眠れないアル!」なとき、神楽のそれを聞くと心底ほっとするのだ。

 

 今日の不眠はまさに脳の多動によるものであったけど、ここに書いてみたらちょっとすっきりした。色んなものに助けられつつ、日々なんとか眠っている。(感謝)

私の住所を知っている人

 贈り物をしたいからと、友人に住所を聞かれた。「この間はありがとう。贈り物をしたいから、差し支えなければ住所を教えてもらえない?」まるで大人みたいな、いや彼は立派な大人なのだけれど、サラッとした爽やかな文面だった。彼の歳の重ね方を、心の持ち方を、私は心底好ましく思う。そして、贈り物のために住所を聞かれるというのは、なんとも心の温まるイベントだった。

 彼は一度うちへ遊びに来たことがある。でも住所は知らないのだ。そう思うと不思議な気持ちになったけど、大人になってからの友達ってみーんなそうかもしれない。私は年賀状のやりとりもしていないので、私の住所を知っている人って、きっとほんとうにごく僅かなんだろう。どうしてと言われたらよくわからないのだけれど、私は、彼が私の住所を知ってくれたことが、なんだかやけにうれしかった。この小さな小さな部屋の中で、日々悩んだり幸せだったりを繰り返しながら生活する私の存在を、知ってくれている人が地球上にひとり増えたという事実に、少し胸がいっぱいになったのかもしれない。大袈裟かもしれないけど、たまにこういうことを思う。私が今、ここに生きているということを知ってくれている人がいるだけで頑張れる。そういう時があるのだ。

 生活は続いている。相変わらずなところもあるけど、ちゃんと変われたところもある。今年は具体的にいきたい。身体を動かして、なるべくなら人に会いたい。集まりに参加したり。そして、落ち着いたら植物を育てたい。決断すべきタイミングを逃したくない。以上。

バターなど落としていたら

 十一月八日(信じられない)、朝はもう冬のようだ。午前8時頃、カーテンから漏れ出る光で目が覚めたけれど、相変わらず何にもやることがない私は迷わず二度寝した。この頃の朝はいつもこんな風で、迫り来る一日のはじまりから逃げるように、何度も何度も眠りなおしてしまう。

 三度目の眠りで夢をみた。それは昨夜にもみた悪夢で、であるから私は、起きてからもしばらくその夢について考えなければならなかった。夢には父と母、それに母方の祖父母がでてきた。夢の中の私はティーンエイジャーで、安っぽいハート柄のパジャマを着ていた。浅く繰り返す眠りの中で見た夢ほど、余韻から抜け出すのには時間がかかる。

 

 夢について考えるのにも飽きた頃、せめて今からでも人間らしい生活をスタートさせなければと思い、なお憂鬱な気持ちを引きずりながら、今やほぼ食糧庫のようになっている玄関クローゼット(そこには元気な頃に買い置きしたさまざまな食材が置いてあって、行けば何かしらの食べ物を見つけ出すことができる。)を開けると、数ヶ月前にいくつか買っておいて一度も食べていない袋ラーメンと目が合った。それまで気分ではなくても、目が合うとなんとなく食べたくなってしまう食べ物がある。ラーメンは私にとってのそれだった。

 片手鍋に水を張りながら思った。そういえば、実家を出てから袋ラーメンを食べるのは、はじめてなんじゃないかしら。少し胸が躍った。一人暮らしも5年目を迎えようとしている今、家の中で起きるお楽しみやトラブルは一通り経験してしまっているので、はじめてのことに出会うとちょっとうれしいのだ。お楽しみでもトラブルでも。それが、袋ラーメンをはじめて作った、くらいの小さなことでも。(退屈は人生の敵だから。)

 茹で上がるのを待つ三分の間に、好きな作家の新刊を調べた。新刊は見つからなかったけれど、数ヶ月前にラジオに出演(!)していたことがわかった。私は歓喜して、やや急いでアーカイブを探した。私の好きな作家はSNSをやらないし、メディアへの露出も極端に少ない(というか、作品の外であまり多くを語らない)ので、こういうことは貴重なのだ。久しぶりに彼女の真あたらしい言葉が聴けるのだと思うと、気が急いた。

 アーカイブは無事見つかった。(ありがたいことに無料で公開されていた。)ラジオを聴きながら、茹で上がったばかりの塩ラーメンにバターなど落としていたら、いつの間にか夢での憂鬱などすっかりどうでもよくなっていた。

 窓の外は薄寒げに曇り、部屋にはラーメンの白い湯気がほわほわと広がった。私は湯気の中に顔をつっこみ、すん、と一息吸ってみた。塩気のあるスープにバターが溶けた、コクのある匂いがした。幸福だ、と思った。なんにも解決していないけれど、とっても幸福だ。単純にそう思った。

大丈夫

 一人で暮らしていて、時間があると、無限に自分のことを考えてしまう。思考が内に内に入って、どんどん自分がわからなくなる。

 こういうことは今までにもあったのに、また同じところへ来てしまった。人に甘えるのには抵抗があったけれど、私はもっと人に甘えた方がいいという気がいい加減にして、久しぶりに友人に連絡をとった。友人は変わらず、私の知っている友人だった。温度のある具体性の高い彼の言葉に、私はいつもとても安心する。彼の言葉にはちゃんとした形があって、実質的ってこういうことだ、と思う。

 

 電話をする前には昼夜構わず涙が止まらなかったのに、電話を終えるとすっかり平気になってしまった。けろっとしている自分をひさしぶりにみた。子どもみたいだと思ったけれど、子どもみたいになれたのは久しぶりで、そのことがうれしかった。彼のくれた言葉と、そして彼が見つめてくれた私が、私を元に戻したように思う。一人でいると自分ばかりが自分を見つめてしまって、埒があかなくなっていたから。

大丈夫と言ってくれてありがとう。しばらくのお守りにします。